タモリと受容

朝方、笑っていいとも!の観覧席で番組前指導を受ける、という妙な夢をみた。ADに拍手のタイミングを教えられているところで目が覚めたけど、あのまま見てたらいいとも青年隊タモリが歌いながら登場したのかもしれない、と思うとちょっと悔しい。

何の罪に対してどういった罰なのかわからないけど、人生でタモリのことを考えている時間が一般平均より少し高い気がする。ちょうど生まれた年に「笑っていいとも!」が始まったせいかもしれない。ヒルナンデスが始まった2011年生まれの子ども達は、いずれ人よりもナンちゃんに思いを馳せる時間の多くなる中年になるのだろう(予言)

夢で背景のセットが自然に配置されるくらいには笑っていいとも!を見ながら育ったけど、今改めて考えると不思議な番組だった。オープニングから軽快なスウィングにのって登場し、コーラス隊の青年たちと番組のテーマソングを歌うサングラスをかけたタモリ。セットの配色と明るさにごまかされてたと思うけど、あの演出って完全に夜の番組調だと思う(「11PM」とか「コルポ・グロッソ」とか)少なくとも日中明るい時間に見るような絵ヅラではなかった。ただ少なくともある時代において、あれが昼の番組のスタンダードだったわけで。人の受容と順応性の可能性はまだまだ計り知れない。

かつてナンシー関が(いいともに出演する)タモリを評して、「テレビに出ても何もカウントされない」という表現を使っていたけど慧眼だと思う。定番とかマンネリを超えた “いいともの演出” は、面白い/つまらないの判断をさせず、ただ積み重なる毎日と埋没するためだけの機能を持っていた。日々の垢のような番組が、視聴者と共に “老い” ていくのは宿命ではあった。ニヤつきながら客いじりを始め、だんだんとオープニング曲を歌わなくなっていくタモリ(最終的にはほとんど歌わなくなった)、長年レギュラーに選ばれる勝俣の目尻のシワ、など徐々に “劣化” していく出演者たち。テレフォンショッキング冒頭の「そうですね!」のやりとりや、観客のざわつきを鎮める「チャン、チャチャチャン」の手拍子など、“お約束” すら投げやりになっていく様は、視聴者とタモリの共犯的な妥協で終末へとなだれ込んだ気がしてならない。タモリが絶対的審判としてあがめられつつも、徐々に空気となっていく感じ。あれが本当の神格化だったのかもしれない。「生活に根づいた宗教」って、いいとものことだったんだな。その意味で、タモリのルックスがサングラスで覆われていたのは、外見の変化を緩くすることで、「不変」とか「永遠」を暗示する重要なファクターだった(時折横顔から覗く、想像以上に年をとったタモリという “禁忌に触れた” 感じも含めて)。

テレフォンショッキングでゲストに来る大物俳優、大御所芸人らが、タモリの家に招待されたときの話を自慢げに語り、視聴者は、タモリが招待客のためにキッチンの奥でひたすら料理をし続け、途中で一度も客に顔を見せないことなど、プライベートな情報を繰り返し繰り返し間接的に摂取する。あれはまさに神(タモリ)の前で牧師(ゲスト)がするお説教だったのだと思うと納得がいく。番組が終了することでタモリは昇天し、永遠となった。

いいとも終了後のタモリ、こないだブラタモリを見ていたけれど、各地の観光地や名勝で、表情を変えずに丁寧な案内を受けているその姿。ガイド役が出題するささやかなクイズにその博識をもって答えると「さすがよくご存知で…」と上品に褒められる姿は、絵ヅラだけ見てると完全に皇族の各地訪問のご様子であった。天子はまだ地上におなりあそばし、僕は望まずとも信者だから、いいともの外にいるタモリをどのように受け取ればいいのかわからなくて、今日も途方にくれている。